なんにでもあう

たきたて白米

悲劇のヒロインはギャグ漫画の主人公と付き合いたい

ラノベみたいなタイトルで失礼します。

 

みなさん、映画『おっさんずラブ』は観ましたか?

 

 

※観てない方は、ネタバレご注意ください!!

 

あ、あとなぜか後半『君の名は。』や『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のネタバレもありますので、お気をつけください!!

 

良いですか?私は言いました!言いましたからね!

 

では、どうぞ!!

 

 

はい。

さほどネタバレはしないかもしれませんが、念には念を入れて、ご注意くださいね。

逆に観た人にしか、なんのこっちゃわかんないかもしれません。すみません。

 

ドラマ版で大いに世間を賑わせた『おっさんずラブ

かく言う私も賑わした1人です。

ブログも書きました。(参照:『おっさんずラブ』を彼氏と観た感想 - なんにでもあう)

 

そんな『おっさんずラブ』が映画になる、と聞いて、私の中には2つの感情が生まれました。

またみんなに会える!!嬉し!というポジティブな感情とあんなにハッピーエンドだったのにまた波乱が起きちゃうの!?というネガティブな感情です。

 

映画ともなれば、初見の人も取り込むために、ただ幸せな後日談だけ流す訳にはいかないでしょう。

つまり、映画の中であの後のみんなに何らかの波乱が待ち受けているということ。

 

やだやだやだ〜〜〜!!あんなにいろんなことを乗り越えてやっと掴んだ幸せも揺らぐ出来事って何ぃ〜〜〜!?怖い〜!でも観たい〜〜〜!!!!

 

と、私の中の黒澤武蔵(部長)が駄々をこねた結果、事前にあまり内容やレビューを調べずに観に行くことにしました。

あんまり調べると、やっぱやめとこ…って気持ちになりそうだったからです。

 

鑑賞した結果、感想を一言で言うと、観たかったシーン全部載せじゃ〜ん!でした。

誤解を恐れず言うと、最高の同人誌でした。

冒頭のアクションシーンも、サウナの修羅場も、蝶子さんとマロのイチャイチャも、夏祭り(花火大会)も、泣きそうな牧も、嫉妬する春田も…

もう観たかったシーン、ぜ〜んぶある

特に夏祭りのシーンの牧の浴衣姿の美しさ…そして個人的に春田は絶対に甚平だと思ってたので嬉しかった…「おっ…」って変な声出た…

 

そして、映画として映画館で観て良かったです。

というのも、あの、劇場でみんなで共有してる感じがとても良かった。

最高の同人誌を誰かと共有できた時を想像してください。それです。

しかも、無理なく同時に読めて、相手が自分と同じタイミングで吹き出したり、息を飲んだりする様子が感じ取れる訳ですよ。

まじで喜びも悲しみも倍。感情の振れ幅が倍になる。どういうこと?

 

あと、ドラマ・映画を全編通して思うことなんですが、牧が悲劇のヒロイン過ぎるし、春田がギャグ漫画の主人公過ぎる

そのバランスが『おっさんずラブ』の面白さだと思うんですが、私は常々思ってることがあるんですよね。

 

悲劇のヒロインはギャグ漫画の主人公と付き合いたいんだろうと。

 

ヒロインは、悲劇の中のハッピーエンドを見つけるんじゃなくて、悲劇そのものから自分を引っ張り上げて作品自体を変えてしまうような人を探していると思うんです。

例を挙げるなら、新海誠の『君の名は。』で主人公2人が再会するのが悲劇の中のハッピーエンドだとすると、そうじゃなくて、隕石が衝突するとわかった時に、急に「俺が止めてみせます部長!」と、こち亀両さんが現れて、衝突を止められても止められなくても「コラァ〜!両津〜!!」「ぶ、部長〜!!」ってなって、なんやかんやみんな生きてるというのが作品自体を変えてしまう感じです。

 

おっさんずラブ』の感想に別作品の「部長〜!」と叫ぶキャラを例に挙げてしまったため、わかりにくくてすみません。

 

でも、両さんが出てきた途端、隕石衝突がそんなに思い悩むことじゃなく思えませんか?

あと、この後なんやかんやあっても誰も死なないという安心感がありませんか?

 

悲劇のヒロインって往々にして死にがちじゃないですか。めちゃくちゃ偏見ですけど。

そこから死の気配を遠ざけてくれるのが、ギャグ漫画の主人公なんです。

 

つまり、牧が春田に惹かれる理由、めちゃわかる〜同意!ということです。

世の中の私のようなマイナス思考な人間は、牧の苦しみやイラつきが痛いほど分かるし、春田と喧嘩した時の「あんたみたいにギャーギャー言いたくないんですよ」というセリフが"言いたくない"のではなく自分の性格のせいで"言えない"し、それを相手に伝える時にこんな言い方しかできない自分にまた絶望しているということが伝わってきて、自分の鏡か?と思うことでしょう。

そして、黒澤部長の「出ました〜言わなくてもわかってほしい!かまってちゃん〜!」というセリフが図星過ぎて足を踏み外すでしょう。

 

でも、大丈夫!!春田がいるからね!

最後は、絶対的ギャグ漫画の主人公・春田のおかげで精神的にも肉体的にも救われる訳です。

 

素晴らしい構造だ…

悲劇のヒロインは、みんなギャグ漫画の主人公と付き合おう…

 

謎の啓蒙に辿り着いてしまいましたが、とりあえず、観て良かったです。

観ようか観まいか迷ってる方は、とりあえずで観て損はないと思います。

 

あと沢村一樹が個人的に好きなので、新キャラとても良かったです。バスローブ姿、ありがとうございました。

悲しいことが多過ぎる

悲しいことが多過ぎる。

ニュース番組を流してるだけで辛い日々。

小学生の頃、ニュース番組が苦手だったけど、その気持ちを思い出してる。

大人になってから時勢を知らないのは困ると見てはいるけど、本当は朝はEテレを見ていたい。

実際、高校生くらいまで、朝ニュースを見ている家族にお願いし、家を出る前の5分間だけEテレの『シャキーン!』を見てから登校していた。

そうでもしないと、登校中の電車の中で、暗いニュースをひたすら脳内で反芻してしまい、とても今から学校という気持ちにはなれなかった。

 

「共感性が高い」というのは、厄介だ。

そのせいで私は、映像作品の中の拷問も見ていられない。

そこに本当は“ない”ことでも、そういう場面を見るだけでその人に成り代わったように辛くなる。

ましてや、ニュースになる事柄には現実にその辛い思いをした人がいる。

自分と地続きの現実に起こる悲しい出来事は、よりその当事者に私を憑依させやすくなる。

 

でも別に優しい人間という訳ではない。

私の場合、私自身で置き換えた時に悲しくなければ平気な訳だ。

ドッキリ番組なんかでは、放送されている時点で本人は了承してお金も貰っているのだろうし、そう考えると別に辛くない。

そもそも優しさの定義が難しいが、共感できる範囲が偏っているという意味で全方位に「共感性が高い」とは言えないと思う。

つまり、「共感性が高い」=「優しい」とは考えていない。

 

悲しいことというのは、往々にして「想像力が足りないこと」で起こりがちである。

自分がこういうことをすると、どういう風に感じる人がいるのか。

その全てに配慮するのは難しい。

私は考え過ぎて自分で言動を制限してしまうことがあるので、それも良くないなあと思う。

 

だから、大事なのは想像力が足りなくて誰かを悲しませてしまった後だ。

きちんと「自分の想像力が足りなかった」と反省できるか、「そもそも悲しんでいる人達は眼中にない」と切り捨てるか。

 

できれば切り捨てないで共存していきたい。

別に深く分かり合えなくてもいい。

自分と考えの違う人間を100%受け入れなくていい。

実際、相容れない場合、ある程度の距離を保つのも有用だと思う。

でも、その悲しみくらいは受け取ってほしい。

受け取って、そういう人が“いる”と知ることは、今度からその人達が想像できるということだ。

それがとても大切なことなんじゃないかと思う。

 

私自身が何について悲しんでいるかぼかしたせいでボンヤリした文章になってしまったけど、こういうところが私の短所でもあり長所だと思うことにする。

誰かに向けたというより、自分への備忘録なので許してほしい。

 

余談だが、年を取って急にドキュメンタリーが好きになってきたのは、自分の想像力に余地を与えたいからかもしれない。

なんでもないことに救われている

ものすごく不幸な訳ではないけれど、どこか満たされない。

絶不調な訳ではないけれど、今日もどこかしらが痛む。

立ち直れないほどのショックではないけれど、鈍痛がずっと続くように引きずってしまう出来事って毎日と言っていいほどある。

 

家に帰ってきても脱力感で何も手に付かず、やらなきゃと思いながら溜まった洗濯や、床に乱雑に積み重なった読んでない本が目に入って、もう全部だめ。

スマホいじって後は寝るだけしかできない。

そんな寝るだけも嫌過ぎて、すんなり眠りにもつけない。

このまま今日が終わるなんて絶対に嫌だ!

 

あーーーーーー誰かこんな私を救ってくれーーーーーーーー!!

 

そう叫びたくなった時、ちょっと触れるだけでスッ…と心が救われた感覚になる物事があります。

それを今回は、まとめてみたいと思います。

誰のためでもない自分のための『俺的俺救い速報』です。何それ。

 

まとめとくと、またスマホしかいじれなくなった時に思い出せるかなと思いまして、救われたいみなさんも「ふ〜ん」と思いながら読んでみてください。

「あ、これ私もそうだな」なんてのが見つかれば嬉しいです。なかったらごめん。

 

なんでもないことに救われている。

 

  • お気に入りのドラマやバラエティを楽しみにする。

私はテレビっ子なので、その日なーんにも楽しいことがなかった時は、とりあえずテレビをつけてみます。

そして、何気なく確認した番組表で「あ!今日10時から、あのドラマだった!」と発見した時に逆算して10時にはお酒でも飲みながらドラマが観れるように、入浴などを済ませ、準備をします。

不思議とタイムリミットが決まってると、やる気になる。

あと準備してる時に仕事のこととか考えなくて済む。

準備の間も「今週どんな展開になっちゃうんだろ?」ってテレビのことだけ考えてると脳が楽です。

 

  • インターネットの生配信や生放送ラジオを聴く。

“生”というのが良い。

私が“生きている”この時に、ネットや電波の向こう側に同じように“生きている“誰かがいる。

このひとりぼっちじゃなさ!世界は繋がってるんだね!

あと上述のテレビ番組を「録画でいっか」と思ってしまった時に、特に有効。

10時からの生放送は『リアルタイムで同じように生放送の準備をしている人達がいる』という点で、より自分も「10時までは掃除しよ!」とか思えます。

あと何も考えたくない時も「生放送だから聞き逃さないように集中する」という大義名分で他のことを考えなくて済む。生最高。

 

  • 唐突に陽気なメロディを口ずさみながら一心不乱に踊る。

急に実践的でないことを言ってすみません。

でも、私は実践しています。怖がらないで。

とは言っても、道端で突然やると捕まるので自室にしてくださいね。

近所から苦情が来ないように声も最小限で大丈夫です。どちらかというと一心不乱に踊る方が重要。

口ずさむのは、なんでも良いです。なんなら「フゥーッ!ヘイ!ヘイ!」とかリズムよく言うだけで良いです。

踊るのも全然本格的でなくて良いです。むしろ、本格的に踊ってしまうと近所からの苦情案件になってしまいます。音があまり出ないような、クネクネ変な動きを意識してください。

イメージしにくいなと思った時は、クレヨンしんちゃんのケツだけ星人を意識して。

狂ったように尻を叩くのも良いです。全て忘れられます。

この自宅で踊り狂うの、いつか観た番組で宇垣アナもやってるって言ってた気がします。ソースは、私の記憶なので信憑性はありませんが、おすすめです。

 

  • ツイートに『いいね』がつく。

シンプルに救われる。

 

  • ブログのアクセス数が増える。

これもシンプルに。

はてなスターコメントも救われまくってます。

 

 

今、思いついたのはこのくらいですね。

みなさんもぜひ、お気に入りのテレビの生放送を観ながら一心不乱に尻を叩いてツイートしてみてくださいね!

1いいねも付かなくても責任は取りません。

 

みんな積極的になんでもないことで救われていこうな!

おとうさんのすきなところ

今週のお題「おとうさん」

 

自分の父の好きなところを考えるのは、めちゃくちゃこそばゆくて恥ずかしい。

私が7歳の子供だったらもっと素直に考えられるのだが、もう成人したいい大人が親の好きなところを公言するのも気がひける。

が、ここはインターネット、たまにそんな人間がいても良いじゃないか。

「苦手な人はブラウザバックしてください」という文言を置いておけばなお良い。

 

そういうことで、よろしくお願いします。

 

小さい頃、家族で回転寿司によく行った。

その頃は今みたいにオートマチックじゃなくて、U字レーンの内側に空間があり、そこに店員さんがいて寿司を握っていた。

別に高い寿司じゃなかったと思う。

少なくとも子連れで行けるような回転寿司屋なので、自動でシャリが握られて出てくる機械なんかはあった。

 

レーンにないものを頼む時は、もちろんタッチパネルなんてないので「すみません」と、ざわついた店内で店員さんに聞こえるように声をかけなければならない。

 

そんな時は、父の出番だった。

 

父の「すみません」は、必ず1回で「あいよー何にしましょう」という返事が返ってきた。

私も「自分で言いたい」と言ってチャレンジしてみるも、ドキドキしながら手が空いた店員さんを見つけ、目が合ってから「すみません!玉子ひとつ」というのが精一杯だった。

たまに、何かにせかせかしている店員さんに「すみません」と声をかけてみるも気がついてもらえず、それが恥ずかしくなって俯いていると、すかさず父がよく通る声で「すみません」ともう一度言ってくれた。

 

思い返すと小さなことなのだが、私は父の『よく通る大きな声』がとても好きだった。

 

最近では、めっきりそのよく通る声を聞く機会がなくなってしまったのが少し寂しい。

なくなってから初めて気がつくとは、よく言ったもので、そんな些細なことだけど今も鮮明に覚えている。

 

なんだかもうこの世にいないみたいな書きぶりになってしまったが、今も父は健在なので安心してください。

大人になった今は、呼び鈴のない個人経営の居酒屋なんかでこの「すみません」を聞くことができるので少しだけ嬉しい。

 

 

もうひとつ、父の好きなところがある。

 

なんかこの書き出しだとめちゃくちゃに書きにくいが、今回は大丈夫、そういうのが苦手な人はブラウザバックしてくれているはず、と信じて続けます。

 

父の好きなところ。

それは、私が何か失敗をした時に落ち込んでいると「俺に似たな」と言ってくるところ。

「お前は悪いところは、全部俺に似たな」という言葉に、私は何度も救われてきたように思う。

実際は、そんなことはない。

というもの、私が見てきた父は、そんな愚かな過ちを犯しているところなんて見たことがない。

実際ないかは知らないが、少なくとも子供にそんな姿を見せないことだけだって難しいことだと、今ならわかる。

子供は勝手に育つという言葉の通り、私自身が私の選択で勝手に間違って打ちのめされているだけだ。

それでも「俺に似たな」という父の言葉は、私に希望をくれた。

 

こんな私でも、父のような人になれるのだろうか。

弱った人に寄り添った言葉を伝えられるような優しい人に。

 

その言葉と一緒に、父は大抵もう一言付け加えた。

 

「悪いところは全部俺に似たけど、良いところは全部お母さんに似たから、大丈夫だ」

 

何が大丈夫かはわからなかったが、不思議と大丈夫だと思えた。

 

本当に父の優しさは不器用だ。

不器用すぎて、この言葉の本当の優しさに、大人になるまでは気がつかなかった。

自分の弱さと他人の良いところを素直に認められる人間のなんと少ないことか。

私もまだ、そんな人間にはなれていない。

 

私が言えるのは「不器用なのは、父親ゆずりなんです」ということくらい。

そう思うと、こんな自分の不器用さも、ちょっと許せるような気がする。

「馬鹿にされた」と感じたのは私自身が馬鹿にしていたからだ

ちょっとだけいつもより真面目な話をします。

なので最初に、話がわかる皆さんに一言お伝えしておきます。

 

※この話は、フィクションです。

 

 

社会人1年目の私は、いろいろな選択肢の中から契約期限付きのいわゆる非正規雇用を選択し、怠惰な大学生時代に培った夜型の生活リズムを呪いながら毎朝慌ただしく出勤する日々だった。

先程「選択し」なんて嘯いたが、就職活動をする中で残った唯一の希望進路がそれだった。

 

とにかく、朝寝坊しませんように。

とにかく、生意気だと思われませんように。

 

そんなことを願いながら、引っ越したての段ボールだらけで足の踏み場のない部屋から必死で這い出て満員電車に乗り込んだ。

その時は、今の仕事の契約期限が過ぎた後のことなんか考える余裕はなかった。

毎日ただガムシャラに、目の前の業務をなるべく迅速に終わらせるようにということだけを考えて努力した。

 

そんな努力も叶ってか、契約は更新され、2年目の夏が来た。

突然、時が進んで申し訳ない。

書きながら、2年目のことだったと思い出したので許してほしい。

 

引っ越して2年目のワンルームには、相変わらず段ボールがある。

段ボールの数こそ減ったが、部屋の荒れようは土日も厭わない連勤が続く度にひどくなっていった。

土日に大掃除をしなきゃ、と思ってもう十数回カレンダーをめくってしまった。

 

そんな時に、大学時代の友人Aから「B(Aと私の共通の友人)の出る演劇を観に来ないか」という誘いがきた。

私は、日頃の言動からAのことは大嫌いだが、Bの活動は応援していたし、少し割高な入場料を躊躇なく払えるくらいの蓄えはあったので、行くことにした。

というよりも、買い物をする気力もなかったので、そんな機会でもなければお金を使えなかった。

 

当日、見知らぬ駅の改札で、Aを含む大学時代の友人4人と待ち合わせをした。

ところが、そこに現れたのは会社勤めの友人2人だけ。

Aともう1人は、やむにやまれぬ事情でドタキャンとのことだった。

余談だが、その来れなくなった2人は、芸人を目指してコンビで活動している。

これだから…と私は少し不満に思った。

突然の予定は誰にだって入る。それは、理解している。

ただ、その時の私は「会社勤めと違って決まった休みとかないんで」と言われてる気がしたのだ。

このためにわざわざ仕事終わりに着替えもせず集まった3人が、馬鹿みたいだった。

 

スーツ・スーツ・オフィスカジュアルという私達は、30席ほどと思われる小劇場の座席で完全に浮いていた。

チケット受付で「Bの取り置きの〇〇です」と言った時に既に『誰?』という顔をされた(気がした)。

というのも、観客のだいたいは出演者の家族・知人・友人でみんな顔見知りといった様子だった。

開演までの30分ちょっと、人が入ってくる度にあちこちで「あ!こないだはどうも!」というやり取りが繰り広げられ、私達に視線を移しては『誰?』という顔をされる。

とにかく居心地が悪かった。

 

永遠とも思われた開演前の時間が終わり、ようやく本編が始まった。

と、思いきや、その演劇は2本立てで前半戦はBが一切出てこない。

それでも、真剣に観た。

前半部分のストーリーは、会社員の男性が主人公だった。

おかげで劇場内のスーツの人口が少しだけ増えた。

前半部分を要約すると、主人公が会社員である自身に葛藤を抱えながら毎日をもがく物語だった。

何者にもなれなくて苦しい日々の中に、ささやかな幸せを見出す物語。

 

そんな物語を一通り観た後、幕間に主催者が出てきた。

この物語に込めた思いなんかを語っていた。覚えてはいない。

 

なんとも言えない気持ちになりながら後半戦を観る。

さっきとは打って変わって、浮世離れしたコメディタッチのご機嫌なストーリー。

Bも出てきて、生き生きと役を演じていた。嬉しかった。

 

終幕後、客席を挨拶回りしているBに声をかけ、私達は「面白かったよ」「差し入れ渡しておいたから、皆さんでよかったら」と口々に伝え、劇場を後にした。

 

しばらく黙って歩いてから、私達3人は誰からともなく「一杯やってこう」と言って、知らない町の安居酒屋に入った。

 

「どうだった?ぶっちゃけ」と、友人が聞いてきたので、私は「面白かったよ」と答えた。

 

「でも、前半のやつは、どう思った?」

 

前半のやつ、会社員が主人公のあの物語。

 

「なんか…馬鹿にされてる気がした」

 

私が酒の勢いに任せて不満気に言うと、2人から「だよな〜」という返事が返ってきた。

 

「何がむかつくってさぁ、会社員のイメージってあんななんだって見せつけられた気がするのよ」

 

友人の1人がそう言う。

わかる。その気持ちが痛いほどわかる。

 

ただの会社員で何者でもない葛藤を、演劇で表現として昇華されることの残酷さ。

「会社員のささやかな幸せを描く」ってことは、会社員はささやかな幸せしか手に入れられないと思っているの?

会社員は"特大の幸せ"をどうあがいても手に入れられないのか。

 

その演者が実際に会社員経験があるかないかは、どうでもよかった。

だって、あったとしても、演劇という別の世界では自分が主人公の"特別な"会社員じゃん。

そんな人に「会社員ってこうだよね」と、簡単に解釈してほしくない。

何もない私達を、見下して馬鹿にしてほしくない。

 

そんな気持ちを吐き出しながら、私達は終電まで飲んで各々しっかり帰路に就く。

明日も仕事だ。

 

電車に揺られながら、またさっきの演劇について考える。

なんであんなに悔しかったのか。

馬鹿にされたと憤ったのか。

 

そもそも自分達が場違いな気がしたから?

私達以外の観客のほとんどは、会話等から察するに舞台関係者ばかりだったように思う。

私達には割高と感じてしまうチケット代も、いずれ今回の出演者が自分の舞台を観に来る時に還元されるのでは。

つまり、部外者の私達こそ純利益で良いカモなのか。

 

思考がどんどん悪い方へ引っ張られていく。

それも最近、あまりよく眠れていないからだろう。

 

そんな人達の中で見せつけられたのが、あの題材だ。

「夢を追っている人」と「夢もなく会社勤めの人」という明らかな対比で構成された脚本。

目の前の寸劇がウケる毎に、自分達が笑われているという錯覚に陥った。

 

誰かを演じるという行為は、演者がその人物をどのように捉えているのかを残酷なほど浮かび上がらせる。

 

しかし、それだけか。

どんなに馬鹿にされたって、何を言われても揺らがない価値を今の自分に見い出していれば、そこまで憤らないはずだ。

私は、今の生活に不満を持っているのではないか?

そして、それは私自身が"ささやかな幸せ"すら手に入れられてないからではないか。

忙殺される毎日の中で、自分の本当にやりたいことから目を背けているからではないか。

 

今の仕事に対して「このままでいいのか」と、自分の中で迷いがある。

私自身が夢を追っている友人を羨んでいる。

迷いもなく、まっすぐに自分の夢に向かっている友人が羨ましい。

だから、迷っている自分を見下されていると感じる。

「馬鹿にされた」と感じたのは、私自身が馬鹿にしていたからだ。

友人のように自分の望む道を決断できず、迷っている自分を。

 

そう気が付いたところで、最寄駅に着き、電車を降りた。

ちゃんとわかっている。夢を追っている友人だって、迷いがないわけではないだろう。 

友人から見れば、私達の目線こそ「馬鹿にしている」と感じたかもしれない。

 

自分だけが苦しいと思って世間を呪っている場合ではない。 

仕事に迷いがあるなら、せめてどこか仕事以外で自分が主人公になれる場所を作ろう。

小さな決断だが、こういう決断のひとつひとつが積み重なって、この迷いにもいつか結論が出るかもしれない。

 

 

そんなことを思って、このブログを始めました。

このブログの中の小さな世界では主人公であるということが、いつか迷った時の指標になりますように。

それでは最後にもう一度、この言葉を添えておきます。

 

※この話は、フィクションです。

 

 

歯を磨いた後に何回うがいをするのがベストなのか

あなたは、歯を磨いた後に何回うがいをしていますか?

 

私はだいたい2〜5回の間なんですが、いつも正解が見つからないで困っています。

 

2回だと歯磨き粉が残ってる気がするし、5回だと爽快感がなさすぎる。

間をとって、3・4回にすると何故か中途半端な気がしてしまい、結局5回うがいしてしまうことが多いのです。

 

ちなみに、5回の場合のうがいの内訳は『ぶくぶく・ぶくぶく・ぶくぶく・ガラガラ・ぶくぶく』です。

最後は、ぶくぶくうがいで終わりたい。

 

ここでいうぶくぶくうがい水を口に含んで頬の内側でぶくぶくさせるうがいのこと』です。

また、ガラガラうがい水を口に含んで上を向き喉でガラガラするうがいのこと』です。

 

だいたいの人が「んなことわかってるよ」ということを説明してしまいました。

 

しかし、けっこうこの歯磨き後のうがいって、個人差があるし、個人的なこだわりが垣間見えると思うんですよね。

 

みんなのベストうがい”を知りたい。

何回で何うがいでフィニッシュするのか、教えてください。

 

この記事へコメントでも、Twitterへでも、マシュマロへでも構いません。

 

白米うまいうまいにマシュマロを投げる | マシュマロ

 

まじで待ってます。

 

なんで急にこんなことを考えたかというと、最近、親知らずが生えてきたからです。

 

虫歯になるのが怖い。

近々、歯医者に行きます。怖い。

令和の"令"って中が『マ』でもいいのかな?

今日から新生活の皆さん、1日お疲れ様でした。

 

特に今日から新天地の人の中には「自己紹介ミスったな…」と落ち込んでいる人も多いと思います。

そんな人は、ぜひこの『Twitterの複数プロフィールを合体させたら最強の自己紹介になるのでは? - なんにでもあう』という記事を読んで元気だしてください。

私が去年、新天地での自己紹介が嫌過ぎてトチ狂った時の記事です。参考にしてね。

 

さて、そんな今日は新元号の発表もありましたね!

元号は【令和(れいわ)】とのこと!!

 

皆さん、第一印象は何でしたか?

私は「令和の"令"って中が『マ』でもいいのかな?」でした。

というのも、私がもっぱら普段手書きで書く時に余程のことがない限り『マ』と書いてしまうからです。

 

発表は『令』の字でしたが、今日のこの時間までちょこちょこ見ていたニュースだと『マ』表記の場合もあり、正式にはどうなんですかね?

今、少し調べてみたら【新元号について「"令"って中が『マ』でもいいのかな?」という疑問の声が上がっている】みたいな記事がたくさん出てきました。

やっぱみんな思ったよね。

 

もっとちゃんと調べれば答えが出てくるのかもしれませんが、そのうち誰かが教えてくれるだろうという受動的態度で待ってようと思います。

すみません、有益なブログじゃなくて…

一応、政府広報オンラインとか首相官邸公式とか軽〜く当たってみたんですけど、長官会見のテキスト版は16時にアップされるみたいなんでそれ出たらちゃんと読みます。

ほらこれ、ちょっと有益じゃない?テキスト版アップ16時だって!だめ?え?ごめんって!!

 

それじゃ、この情報が少しでも有益な内にブログアップします。

数年後に見返して「"令和"について、こんな第一印象だったんだ〜」と振り返るためだけの記事でした。

 

ーーー そう、この時の私はまだ知らなかった。

数年後「"令和"について、こんな第一印象だったんだ〜」と振り返ることなど"ない"ということを………