なんにでもあう

たきたて白米

おとうさんのすきなところ

今週のお題「おとうさん」

 

自分の父の好きなところを考えるのは、めちゃくちゃこそばゆくて恥ずかしい。

私が7歳の子供だったらもっと素直に考えられるのだが、もう成人したいい大人が親の好きなところを公言するのも気がひける。

が、ここはインターネット、たまにそんな人間がいても良いじゃないか。

「苦手な人はブラウザバックしてください」という文言を置いておけばなお良い。

 

そういうことで、よろしくお願いします。

 

小さい頃、家族で回転寿司によく行った。

その頃は今みたいにオートマチックじゃなくて、U字レーンの内側に空間があり、そこに店員さんがいて寿司を握っていた。

別に高い寿司じゃなかったと思う。

少なくとも子連れで行けるような回転寿司屋なので、自動でシャリが握られて出てくる機械なんかはあった。

 

レーンにないものを頼む時は、もちろんタッチパネルなんてないので「すみません」と、ざわついた店内で店員さんに聞こえるように声をかけなければならない。

 

そんな時は、父の出番だった。

 

父の「すみません」は、必ず1回で「あいよー何にしましょう」という返事が返ってきた。

私も「自分で言いたい」と言ってチャレンジしてみるも、ドキドキしながら手が空いた店員さんを見つけ、目が合ってから「すみません!玉子ひとつ」というのが精一杯だった。

たまに、何かにせかせかしている店員さんに「すみません」と声をかけてみるも気がついてもらえず、それが恥ずかしくなって俯いていると、すかさず父がよく通る声で「すみません」ともう一度言ってくれた。

 

思い返すと小さなことなのだが、私は父の『よく通る大きな声』がとても好きだった。

 

最近では、めっきりそのよく通る声を聞く機会がなくなってしまったのが少し寂しい。

なくなってから初めて気がつくとは、よく言ったもので、そんな些細なことだけど今も鮮明に覚えている。

 

なんだかもうこの世にいないみたいな書きぶりになってしまったが、今も父は健在なので安心してください。

大人になった今は、呼び鈴のない個人経営の居酒屋なんかでこの「すみません」を聞くことができるので少しだけ嬉しい。

 

 

もうひとつ、父の好きなところがある。

 

なんかこの書き出しだとめちゃくちゃに書きにくいが、今回は大丈夫、そういうのが苦手な人はブラウザバックしてくれているはず、と信じて続けます。

 

父の好きなところ。

それは、私が何か失敗をした時に落ち込んでいると「俺に似たな」と言ってくるところ。

「お前は悪いところは、全部俺に似たな」という言葉に、私は何度も救われてきたように思う。

実際は、そんなことはない。

というもの、私が見てきた父は、そんな愚かな過ちを犯しているところなんて見たことがない。

実際ないかは知らないが、少なくとも子供にそんな姿を見せないことだけだって難しいことだと、今ならわかる。

子供は勝手に育つという言葉の通り、私自身が私の選択で勝手に間違って打ちのめされているだけだ。

それでも「俺に似たな」という父の言葉は、私に希望をくれた。

 

こんな私でも、父のような人になれるのだろうか。

弱った人に寄り添った言葉を伝えられるような優しい人に。

 

その言葉と一緒に、父は大抵もう一言付け加えた。

 

「悪いところは全部俺に似たけど、良いところは全部お母さんに似たから、大丈夫だ」

 

何が大丈夫かはわからなかったが、不思議と大丈夫だと思えた。

 

本当に父の優しさは不器用だ。

不器用すぎて、この言葉の本当の優しさに、大人になるまでは気がつかなかった。

自分の弱さと他人の良いところを素直に認められる人間のなんと少ないことか。

私もまだ、そんな人間にはなれていない。

 

私が言えるのは「不器用なのは、父親ゆずりなんです」ということくらい。

そう思うと、こんな自分の不器用さも、ちょっと許せるような気がする。