悲しいことが多過ぎる
悲しいことが多過ぎる。
ニュース番組を流してるだけで辛い日々。
小学生の頃、ニュース番組が苦手だったけど、その気持ちを思い出してる。
大人になってから時勢を知らないのは困ると見てはいるけど、本当は朝はEテレを見ていたい。
実際、高校生くらいまで、朝ニュースを見ている家族にお願いし、家を出る前の5分間だけEテレの『シャキーン!』を見てから登校していた。
そうでもしないと、登校中の電車の中で、暗いニュースをひたすら脳内で反芻してしまい、とても今から学校という気持ちにはなれなかった。
「共感性が高い」というのは、厄介だ。
そのせいで私は、映像作品の中の拷問も見ていられない。
そこに本当は“ない”ことでも、そういう場面を見るだけでその人に成り代わったように辛くなる。
ましてや、ニュースになる事柄には現実にその辛い思いをした人がいる。
自分と地続きの現実に起こる悲しい出来事は、よりその当事者に私を憑依させやすくなる。
でも別に優しい人間という訳ではない。
私の場合、私自身で置き換えた時に悲しくなければ平気な訳だ。
ドッキリ番組なんかでは、放送されている時点で本人は了承してお金も貰っているのだろうし、そう考えると別に辛くない。
そもそも優しさの定義が難しいが、共感できる範囲が偏っているという意味で全方位に「共感性が高い」とは言えないと思う。
つまり、「共感性が高い」=「優しい」とは考えていない。
悲しいことというのは、往々にして「想像力が足りないこと」で起こりがちである。
自分がこういうことをすると、どういう風に感じる人がいるのか。
その全てに配慮するのは難しい。
私は考え過ぎて自分で言動を制限してしまうことがあるので、それも良くないなあと思う。
だから、大事なのは想像力が足りなくて誰かを悲しませてしまった後だ。
きちんと「自分の想像力が足りなかった」と反省できるか、「そもそも悲しんでいる人達は眼中にない」と切り捨てるか。
できれば切り捨てないで共存していきたい。
別に深く分かり合えなくてもいい。
自分と考えの違う人間を100%受け入れなくていい。
実際、相容れない場合、ある程度の距離を保つのも有用だと思う。
でも、その悲しみくらいは受け取ってほしい。
受け取って、そういう人が“いる”と知ることは、今度からその人達が想像できるということだ。
それがとても大切なことなんじゃないかと思う。
私自身が何について悲しんでいるかぼかしたせいでボンヤリした文章になってしまったけど、こういうところが私の短所でもあり長所だと思うことにする。
誰かに向けたというより、自分への備忘録なので許してほしい。
余談だが、年を取って急にドキュメンタリーが好きになってきたのは、自分の想像力に余地を与えたいからかもしれない。