なんにでもあう

たきたて白米

電子機器をトイレに落とした時の絶望

こんにちは、白米うまいうまいです。

 

電子機器をトイレに落とすと最悪じゃないですか?

トイレに落とすことがまず嫌なのに、その上に故障の危機な訳です。

今、このブログもトイレでスマホをいじって書いてますが、落とさないように両手で握ってます。

そこまで不安なら、まずトイレを出ろ。

 

トイレを出ました。

 こんにちは、白米うまいうまいです。

トイレってなんであんなに落ち着くんですかね。

たぶん半日くらいなら、ずっとトイレにいろと言われても平気な気がしますが、さすがにそれは言い過ぎかもしれません。

 

そんなトイレ大好きな私ですが、トイレにはひとつだけ嫌なところがあります。

それは、最初にも言いましたが、電子機器を落とすと最悪というところ。

まだ使用前のトイレに落とすのは許せます。百歩譲って。千歩くらい譲って。

トイレとはいえ、まっさらな水の中ならばまだグッと堪えて拾い上げることも可能。

でも電子機器なので故障の確率は五分五分といったところでしょう。

「拾い上げても使い物にならない可能性のあるものを拾う」という行為と「使用前のトイレに手を突っ込む」という労力は多少見合う気もします。万歩譲って。

つまり、許せるけど最悪、程度です。

 

しかしこれが使用後の上、水を流す前のトイレだったらどうでしょう。

もう最悪も最悪、許せない上に最悪です。

許せない上に最悪=絶望とも言い換えられますね。

しかも電子機器なので絶対に流せない訳です。だって詰まるから。まずそこそこの大きさがあると流せもしないし。

故障してるかどうかは使用前と変わらず五分五分ですが、例え使えたとしてももう使いたくないというところが前者と大きく違うところです。

なぜ使いたくないと言い切れるか。

答えは、簡単です。

糞尿にまみれているから。

糞尿にまみれたもの、使いたいですか?よく洗ったって拭いたってもうそれは一度「糞尿にまみれしもの」なんですよ。

もしそんなもの使いたいという人がいたら、すぐに逮捕した方がいいと思います。危ない方なので。

よって、使用後の水を流す前のトイレに電子機器を落とすと絶望なんですが、それが自宅ならまだ一旦部屋に戻って現実逃避が出来るし、道具を取ってきてそれで取ることもできます。

 

これが職場のトイレならどうでしょう。

一旦置くなんて怖いことができるでしょうか?

誰かに見つかることが1番の恐怖です。

恐怖に支配された人間に残された手段はひとつ。「素手で取る」のみ。

 

昨日、私はまさにそんなことがありました。

その時は本当に絶望したし、今までの自身の悪行を後悔しましたが、人間とは案外図太いもので拾った後は意外なほど淡々としていました。

 

落とした電子機器は、職場の備品だったのでよく洗って使っています。

電子機器とは案外丈夫なものです。

 

ドライアイなのに目薬をさすのが下手

こんにちは、白米うまいうまいです。

突然とんでもねえ名前で失礼。

名前が思いつかなかったので、ID名をそのまま名乗っています。

でもまあ白米はうまいです。なんにでもあうし。

おいしいおかずでご飯が進むのは、おかずが魅力的だからじゃない、ご飯がなんにでもあうからだよ。

 

話が逸れました、タイトルの件に戻ります。

私という人間は、ドライアイなのに目薬をさすのが下手です。

これこそが私という人間のすべてです。

どういうこと?とお思いでしょうが、そういうことなんです。

ドライアイなのに目薬をさすのが下手。

自分に必然的に必要な能力の値が0(ゼロ)なんです。

こんなに悲しいことがありますか。

 

私の地元はド田舎なので、小さい頃に友達と遠出をしようすると、必然的に自転車に乗る必要がありました。

しかし、私が自転車に乗れるようになったのは小学3年生。

周りの子達が1年生で習得していた自転車を「転びたくない」の一心で2年もの遅れを取って習得しました。

 

そう、私の人生は全部「〇〇したくない」の足枷で雁字搦めになっているんです。

 

あ、目薬は単に先端恐怖症の気があって苦手なだけなので、あんまり関係なかったですね。

でも先端恐怖症って不便なんですよ。それこそ小さい頃、合唱練習の時に先生が「指揮棒の先をよく見て〜」と言ってくるのが拷問に近いほど苦痛でした。

だって、目に刺さるイメージが離れないんだもん。絶対指揮の人の手が狂って飛んできた指揮棒が私の眼球にサクッとクリーンヒットするもん。ゾワワッ!

 

また話が逸れました。

私のこういうところもいけない。

 

この文章だって「ダサいと思われたくない」と思って書いてます。

「ウケたい」なんて大層なこと思えないんです。

ダサいと思われたくない。嫌われたくない。

 

よく人に指示を出す時は“肯定形”で、と言います。

例えば、バスケの試合でシュートを決めてほしい時に「外すな!」ではなく「入れろ!」と指示すべきと。

否定形の「外すな」よりも肯定形の「入れろ」の方が人間反射的に反応できるし、プラスのイメージを抱いて成功しやすいとかなんとか。

 

そう考えると、私は自分自身に否定形の指示を出し続けて自分から成功を遠ざけるという非効率的な生き方をしている訳です。

なんだそれ、ふざけてんのか。

 

でも20数年積み重ねてきたものってもう体に染み付いちゃって、そう簡単に変えられないんですよね。

だから、最後にこのブログの意気込みを書いて終わりにしようと思います。

 

スベりたくないな〜